今月の10日に私の父親が亡くなりました。
82歳でした。
私は、9日の夕方に容態が急変してと連絡を受け、旭川から羽田の最終便がまだあったのでそれに乗り込んだのですが
羽田空港で携帯電話の電源を入れると弟からの着信があった、あ、もしかしてと思った、まさかとも思った。
でも、やはりそうだった、先ほど息を引き取ったと…。
私は、その場に立ち会う事が出来なかったのだけど、その時の話を聞くと。
それはまるで、生まれてくる事の反対のように静かに息を引き取ったんだろうと想像できる。
きっと、また新しい命としてどこかで生を受けるんだろうとも想像できる。
悲しいけど…悲しくない。
父は、生前、全力で生きたんだろうと、そしてその生涯に幕を閉じたんだろうと。
私が、家を出たのは、高校を卒業して間もなくなのでかれこれ30年近く経つ、小さい頃私はいつも父の背中ばかりみていた
小学校の頃から、夏休みなど、ラジオ体操も行かないでいつも朝、4時頃から一緒に市場へ買い出しについていった。
そして仕出し屋だった私の実家でいつも私は手伝っていた、中学校の頃から魚の腹をだして串に刺したりしてたような記憶がある。
いろんな事を思い出す。
でも私が大きくなって、なぜだか、親の後を継ぎたくない、そう考えた。
継ぎたくないのではなく、自分で何かをやりたい、そう考えていた。
私の父もそう言う感じだったんだと思う、いつも自分で考えて、そして、何も無かった私の故郷の今は揖斐川町だけど、私がいた頃は春日村と呼ばれていた。そこで雑貨店から始まり、仕出し屋をやり始めたんだろう。
親の後を継いだ訳じゃないんだろうと。
それにいつも新しい事をしていたし、いつも何かを考えていた父。
いろんな人の面倒も見合ていた、市場へ行くと、なんだか知らないけど、たぶん知り合いの仲買の所なんだろうけど
勝手にいろんなものを持ってこられて買わされていたんだろうなあれはと言う光景もあった。
ある意味ではそんな人の面倒も見ていたんだろうと。
いろんなものを一気に抱えて引きずっていた父、でもいつも頑張っていた。
実家のある春日村にある藤田商店、それが私の実家である。
そこからもう少し奥にある民家に売りにいくときなど、いつも「都はるみ」の曲をワゴン車の上に付けた拡声器で大きくかけて移動販売をしていた、たぶんあの頃、あれは画期的で、大変みんな重宝していたんだろうと想像できる。
懐かしい。
今は、弟が、「氷川きよし」をかけてやっているらしい。
いつも、うちわを作って村中に配っていた、そこには達磨の絵が書いてあって、「七転八起」といつも書いてあった。
七回転んでも八回目で起きるんだと、何回失敗しても成功するまでやるんだって事。
ある意味では、そういう「ポジティブな所」「何も無い所から何かを作り出すと言う事」を私は父から受け継いだ。
数年前からは、痴呆がひどくなり、施設に入り、たまに行く私の事は殆どわからなかった。
でもその時の顔が印象的だった、にこっと笑い、いろんなややこしかった事は忘れて、ほんといい笑顔だった。
ほんとまるで、子供の頃に戻ったような素敵な笑顔だった、とても幸せそうだった。
その笑顔を見ていると、私の事は分からないけど、私はなんとなくうれしかった。
11日の通夜は実家で行われた、その日の午後、おくりびとの人が来られ、父の体を奇麗に洗ってくれて、白装束をまといまるで生きているかのようにして棺桶へと納めてくれた。
体中やせ細って、自分の体のエネルギーを使い果たして最後に息を引き取っていったんだなと思う。
私はあなたの息子である事を誇りに思います。
感謝しています、ありがとうございます。